- なんでも
- 匿名
- 21/05/12 13:53:43
「自分の思いを理解してほしい」
人に今ある状況や経験を伝える時、そのまま伝えてしまうと「なんだその程度か」と思われてしまうことがあります。
その場に居なかった、経験できる立場にないという場合は、相手に自分の思いを理解してもらおうとしても、予想以上に理解されないことが多いです。
甘く見られたり軽くあしらわれたりと、自分の思いが伝わらず「なんで伝わらないんだ」と不満を抱く人は、多少大袈裟になっても自分の思いを理解してほしいという思いが強いのでしょう。
「こんなに苦労した」「こんなに頑張った」「尋常じゃなかった」という思いを相手にも分かってもらいたくて、大袈裟な表現や伝え方をする人もいます。
このような人は、人から認められたいという欲求があり、認められた時に初めて「やって良かった」「頑張って良かった」と思えるタイプです。
そう思うためには、自分の状況や思いを大袈裟に伝え、相手に知ってもらう必要があり、多少の嘘や作り話も盛り込んでいることでしょう。
「注目を浴びたい、目立ちたい」
大袈裟に感じる行動や発言があると、人は少なからず「え?どうしたの?」と見てしまうものです。
何か特別なことがあったのかもしれない、普通ではないことが起きたのかもしれないと、興味を示す人が大半でしょう。
この心理を利用して大袈裟な人は人からの注目を浴びようとしていることが考えられ、「目立ちたい」という思いが反映された行動です。
我慢できる程度のケガであっても「痛い痛い」と大きな声で叫びながら「骨が折れたかも」と大袈裟に言えば、周りの人は「見せて」「大丈夫?」と心配してくれます。
一時的にであっても自分を見てもらえることに喜びを感じ、注目されていることで快感を得ているのかもしれません。
このような目立ち方をする人は、時間と共に周りから見放されていく傾向に。
「またか」「どうせいつものことだろ」とないがしろにされてしまうため、大袈裟な行動や発言はさらにエスカレートします。
見られること、心配されることで、求められていると勘違いしていることが考えられます。
「人からの評判を良くしたい」
見栄を張るという意味で大袈裟な人もいます。
例えば過去の栄光を少し盛り、大袈裟に伝えることによって、相手から「すごい人」「尊敬する」と思われる。
過去の栄光を事実なのかを確認する術は相手になく、また時間が経てば経つほど思い出が美化されていき、大袈裟な伝え方をしてしまうのです。
これは単に、「褒められたい」「すごいと思われたい」という心理からくるもので、大袈裟にしているのは「分かりやすく伝えるため」です。
スポーツで例えるならば、「市の大会で5位の成績を収めた」というよりも、「県でトップクラスの成績だった」と言った方が、そのすごさが伝わるでしょう。
人からの評判を良くしたいと考えている人は、事実を変えずに(※事実を変える人もいます)話を大きく捉え大袈裟に伝える方法を用います。
具体的に話すのではなく、大まかにざっくりと話す形にして、話自体を大きくする。
相手に伝わりやすい方法で大袈裟に伝え、自分の評価を良くしたいと考えた巧みな技とも言えるかもしれません。
具体的な回答を求めていくと、実態を把握することができます。
その時あたふたした行動を見たり、「県でって言っても市内なんだけどね」と謙虚な姿勢が見られてきたら、ただ褒められたい願望が強かっただけです。
「感受性が豊か」
たとえば、旅行先で美しい風景を見たとします。
その際、同じ風景を見ても、大きな感動を覚える人もいれば、「きれいだな」とは思っても、それほど特別な感動は覚えない人もいるでしょう。
前者の場合、旅行から帰って友達などに土産話をする時、「今度の旅行ではこんな絶景を見たよ。あんな景色、生まれて初めて見た。あまりの美しさに感動して、涙が止まらなかった」というように熱っぽく話すに違いありません。
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